雅子さまの小学校時代の作文を公開「ピアノ、スポーツ、生きものがお好きなおてんば少女」
やがて雅子さんは田園調布雙葉小学校に編入します。かつて母の優美子さんも通った田園調布雙葉小学校の紺の制服姿で登校し、母の期待通りに成長します。
雅子さんの家族は、目黒区の母方の実家を改築して住むようになります。古いけれども、広くて造りのしっかりした家でした。
庭には池がありました。雅子さんと双子の妹たちは外で遊ぶことが多く、たくましく日焼けしたおてんばな少女時代を過ごしています。
当時はローラースケートが流行していましたが、姉妹3人は転びもせず、とても上手に滑っていたそうです。ローラースケートをするときには、ヘルメットをかぶり、膝当てひじ当てをきちんとつけていました。少しでも危険が感じられる遊びには、事前にカバーするという優美子さんの配慮でした。
小和田家の姉妹は仲よしでした。ピアノを習っている雅子さんは、バイオリンを習い始めた妹たちと一緒に合奏します。
「うらやましい光景でした」と記憶している友だちが何人もいます。
昭和48年(1973年)、雅子さんは通っていたビアノ教室「若草会」の発表会で「柱時計」を弾きました。
「ひとつのミスもありませんでした」とピアノの松本延枝先生は語ってくれました。
小和田家を訪れた友だちは、母の優美子さんの優しさや面倒見のよさに感激しました。
家の近くには駒沢公園があります。ある友だちは、雅子さんと礼子さん、節子さんとたびたび駒沢公園に出かけています。自転車を押しつつおしゃべりを楽しみながら、公園まで歩いていくのです。優美子さんとお手伝いさんが一緒です。
公園では、自転車を乗り回して遊びます。お手伝いさんだけが、自転車に乗れませんでした。
「雅子さんのお母さんが『乗り方を覚えましょう』と言ってくれて、私を自転車に乗せて、後ろをしっかり押さえて押してくださったんです」と友人は回想します。
優美子さんの面倒見のよさは、そのまま雅子さんに引き継がれています。彼女の得意な学科は理数系です。同級生が塾に通い始めた時代に、雅子さんは学校の勉強だけでよい成績が取れる生徒でした。そんな雅子さまには、テスト前になると同級生からの電話が増えるのです。
「オワに電話をして、必死に考えてもわからないところを聞くのです。すると、オワが考えたり調べたりして教えてくれるんです」と友人は述べています。
田園調布雙葉小学校で、雅子さんは生物部に所属していました。子どものころから動物が好きで、家ではハムスターやカメレオンを飼っていました。昆虫も好き。一時期、雅子さんの家には犬も猫もいて、さながら動物園のようだったといいます。
6年生の夏休みに、ハツカネズミを3匹預かって漬物の樽に入れて観察していると、ネズミ算で増えてしまい、夏休みの終わりごろには50匹くらいになってしまったということもありました。
「ある夜、その50匹のネズミが樽をかじって全部脱走してしまったんです。慌てて保健所に連絡して、大騒動になりました。」
昭和51年(1976年)3月、雅子さんは小学校を卒業しました。卒業する際に書いた作文をご紹介しましょう。
「クラブ」
小和田雅子
六年間の思い出といえば、修学旅行、林間学校、遠足、運動会など、たくさんあります。
でも、とても印象に残ったのは、六年の十一月十四日のクラブです。私は、五年の時は手芸部で、今年は生物部です。生物部は、六年四人と五年二人、岸田先生の、小さいクラブです。
この日、私たちは、「コジュウケイ(原文ママ)」のはくせいをつくることにしました。その鳥は、学校の窓ガラスにぶつかって、死んだのだと先生はおっしゃいました。
肛門から、はさみを入れて、お腹の皮をさきます。その後、肉を切らないようにして、中の肉をとり出します。そのためには、足とつばさを、適当な所から、切らなければなりません。足は、うまくいきました。つばさも一こできて、残るは、つばさ一ことなりました。そこは、先生がなさいました。ところが何という失敗! 先生は、つばさを切り落としてしまったのです。あと、頭のところの肉をとれば、肉がとれたのに。そして、かわかしたあと、中身を入れて、はくせいができたのに……。とても残念!